「論文」
月刊自治研2003-02(vol45,no521)


合併以前に自治体改革を
〜自治体評価の積み重ねこそが改革である〜

住みたい富山研究所
谷口新一


●はじめに

私は富山でコミュニティシンクタンク「住みたい富山研究所」を個人で運営している。収入のための研究所ではなく、自分が地域社会にできることはなにかを見つめ実践する場としての研究所である。富山に根ざして考えてきた視座と経験から、市町村合併を考えてみたい。 さて、さっそく論文にはそぐわない話題であるが、私は富山県上市町の山間部に住んでいる。上市町は人口2万3000人強の富山市に隣接した町であり、大多数は平野部に住んでいる。山間部に住んでいる人口比率は1%未満である。上市町には中学校が1校ある。私が中学生だった冬のある日、山間部のみ豪雪の日があった。私は公共バスの関係で遅刻してしまったわけだが、遅刻したのは私だけらしく、出席簿には「遅刻」とされた。別のある日、多くの生徒が交通機関の乱れで遅刻したことがあった。この時は、私は遅刻せずに通学したが、遅刻した生徒が多かったためかその日遅刻した生徒は「遅刻」とはされなかった。山雪の日、私が遅刻したのは事実である。それを遅刻とされるのは、私の責任であり受け入れよう。しかし、多数生徒の遅刻はなぜ遅刻とされなかったのか。その合理性は見いだせない。多数派の不運ならそれは見過ごされるのか。不運ならまだいいが、多数派の「未必の故意による悪」までもがもしかしたら見過ごされるのだろうか。市町村合併とは、理屈では筋の通ったものなのかもしれないが(私は理屈でも疑問視したい)、少数切り捨てかつ社会的にも不合理なシステムではないかと考える。 今私には3歳の息子がいる。小学校進学後の通学手段で悩んでいる。小学校低学年は午後早々に授業が終わる。通学指定校区の小学校には学童保育制度がない。しかも、スクールバスは、家から2km離れた場所が終点である。小学1年生に、熊や猿、カモシカが出没する2kmの山道を一人で歩けというのは危険ではないか。町に要望しているが、今のところスクールバスを延長する計画はない。スクールバスは何のためにあるのか。それは子どもたちの通学のためである。スクールバスを全く運行しないというのならまだわかる。しかし、運行している以上、少数派にも生活必需的行政サービスはなされるべきではないだろうか。 このような問題が起こる根本原因は、地域課題の共有がなされていないということである。僻地にスクールバスを走らせることが個人サービスであり無駄であるとか非効率であるとかそういう判断以前に、そもそも少数派の課題を把握できていない。もしくは、少数派の課題については、自治体内公平の原則によりあえて目を閉ざすというのが公務員の基本行動原則となっているのかもしれない。課題の把握ができない、もしくは把握していても施策として実現できない規模になってしまうことは、住民による住民のための住民自治にとって不幸でしかない。我が家は先祖代々この地に住んでいる。わがままで山に移り住んだのではない。それなのに少数派ということだけで、甘えではなく合理的な考え方までも泣き寝入りしなければならないのだろうか。 いかにも私的な事例であるが、市町村合併の本質を理解するうえでも参考になると思い、批判を承知で書いた。以下本文で、市町村合併は本当に改革なのか、改革のためになすべきことは何なのか、考えてみたい。

●市町村合併の直接効果と間接効果

市町村合併には多くのメリットがあるとされ、デメリットは解決できるまたは乗り越えるべきこととされている。私は市町村合併のメリットを過大評価していると考えている。メリットを合併による直接効果(合併によってしか実現できないこと)と間接効果(合併でやりやすくなるかも)にわけて考えるとわかりやすい。合併しないとありつけない直接効果は、合併特例債と首長等3役・議員の人件費程度でしかない(図1)。 合併特例債については、合併による直接効果ではあるが、税金を使うという方向での効果であり、歳出削減をしなければならない今日的な状況から考えると、改革であるとは到底思えない。合併特例債はお金を使えるという意味では効果かもしれないが、市町村にとっても自己負担1/3の借金であり、もちろん国にとっても一旦歳出が増えるわけだから短期的には改革ではない。また、合併により首長等3役の人件費は削減されるが、その地域のことを一生懸命考えるリーダーがいなくなるという意味では歳出削減以上に大きなものを失うとも考えられる。議員についても同様であるが、首長と違うのは、在任特例により、短期ではあるが多くの場合歳費アップというアメにありつける可能性がある。 一方、職員人件費削減や少子高齢化対応、専門職員の配置などが合併を進める要因となっているが、これらは間接効果といえる。つまり、合併することでやりやすくなるかも、という程度の効果にすぎない。職員削減による人件費効果は、退職者数の1/2を新規採用するといういわゆる「1/2採用」というスタンスを合併しても合併しなくてもとるとすれば、結果は同じとなる。もちろん、合併した方が職員の削減はやりやすいと一般的に考えられるが、合併したとしても職員の削減が自動的に行われるものではない。合併しようがしまいが自治体の組織規律や努力度に依拠する部分が多い。職員給与体系の高い自治体の水準で合併後の給与が決められるケースも多発しており(※1)、短期的には職員人件費については、合併してアップする事例が多発するだろう。 また、少子高齢化対応というが、あえて野蛮な言葉でいえば、合併したら「やっかいもの?の高齢者」が死んでくれるわけではない。高齢化率の高い山間部自治体と低い都市部自治体が合併すれば高齢化率は平均化され、数値的には問題ないようになるかもしれないが、高齢者一人ひとりが直面する問題が合併により自動的に解決されるわけではない。平均化すれば問題が薄まり、薄まると問題が顕在化せず解決策を遅らせるだけという結果にもなる。または、問題解決にあたり画一的ゆえの高コストな解決策しか出て来ない。合併するかしないか、自治体が大きいか小さいかという画一的で単純な評価軸に依拠するのではなく、税金の使い方がうまいか、高齢者の満足度は高いかという、各自治体の「知恵と工夫」こそが重要である。総務省のホームページによれば、『従来、採用が困難又は十分に確保できなかった専門職(社会福祉士、保健婦、理学療法士、土木技師、建築技師等)の採用・増強を図ることができ、専門的かつ高度なサービスの提供が可能になります』(※2)とあるが、知恵と工夫は、専門職員のいる大きな自治体が優秀であるとは限らない。大きな自治体の方が問題発見能力と解決能力が高いという結論を実証的にも容易に導きだすことはできないはずである。むしろ、問題発見能力も解決能力も小さな自治体の方が高い傾向があるとも考える。篠山市の合併から1年8カ月後に市職員の意識調査を行った森脇俊雅氏は、課題として「合併したことへの職員の満足度は非常に低い」ことを指摘している(※3)。合併が職員の士気向上や意識改革につながらず、地域問題解決力に結びついていないということが推察される。


図1・合併の直接効果と間接効果
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●小さな自治体は本当に非効率なのか

住民1人あたりの歳出は、概ね10万人程度以下の自治体においては、人口規模が小さくなるに従い上昇する傾向がある(※4)。総務費など小さな自治体が構造的に抱える非効率な面があることも否めないが、非効率という評価については、もっと正確にすべきではないかと考える。例えば、高齢化率の高い自治体は歳出が多くなりがちである。これは当然である。評価すべきは、住民1人あたりの歳出ではなく、高齢者1人あたりの歳出ではないか。高齢者の存在自体が悪いのではない。高齢化率の高い自治体の存在自体が悪いのではない。高齢化率の高い自治体は、結果的に全人口1人あたりの歳出は多くなる。当たり前のことだ。今、小さな自治体の存在自体が悪いという話になっているが、悪いのは、例えば、一人当たり高齢者に対して、無駄使いをすることや満足度の低い施策である。決して小さな自治体が自動的に悪いわけではない。小さい大きいという単一軸による評価ではなく、税金の使われ方や満足度の評価を地道に行う必要がある。市町村別の高齢者一人あたり医療費や介護福祉費などのデータは残念ながら公開されていない。ここでは、富山県内の図書館について税金の使われ方を分析してみたい。 図2を見てほしい。横軸は人口規模(対数表示)である。縦軸は、平成13年度の貸出1冊あたりコスト(図書館費)である。図書館費は、人件費や資料費などの合計であり、臨時費を除いてある。富山県には35の市町村があり、図書館設置率100%、つまり35の図書館がある。今回は年間貸出が500冊未満の上平村と平村の2つの図書館を除いた。グラフのとおり、富山市(人口32万人)では貸出1冊あたりコストは422円である。高岡市(人口17万人)は638円。人口が少ない程コストが上がるという傾向は見られない。人口2500人弱の舟橋村は224円で運営している。なぜ貸出冊数という指標を私が重視するかといえば、“Value for money(税金の払いがい、以下Vfm)“でいうアウトカム指標だからである。インプット(人やモノという予算の投入)→アウトプット(結果)→アウトカム(成果)。図書館でいえば、アウトプットは図書購入にあたる。いくら図書購入が多くてもそれは行政サービスとして具現化していないわけで、税金の払いがいのためにはアウトカムが重要である。図書館の場合のアウトカムは貸出冊数ということになる。 実は舟橋村立図書館(館長・辻澤與三一氏)は、住民一人あたり貸出数60冊でダントツ日本一の図書館である。住民一人あたり図書館費も1万4000円弱であり、富山市1600円の10倍というコストをかけている。10倍だから非効率なのか。一人あたりのコストは大きいかもしれないが、貸出という受益あたりでいえば、高コストとはいえない。むしろ、知恵と工夫、対応、サービスなど、住民に支持された結果としての図書館であり、Vfmからみれば素晴らしい図書館といえよう。一人あたりのコストという視座で見ることは必ずしも正確な評価を得られるものではない。合併により、舟橋村立図書館のような存在自体も否定されかねない。


図2・人口規模と図書館のコスト
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●地域根源性や多元性による個性こそ発展の源泉

舟橋村は富山市に隣接しておりベットタウンとして人口が急激に増加している。急激な増加は裏を返せば、大きな衰退のシナリオなわけであるが、その問題はここでは分析しないこととし、個性ということについて考えてみたい。もし、舟橋村が富山市と合併した場合、自治体内公平の原則があるから、一人あたり図書館費が10倍という図書館は存在しえないのではないか。それでは、舟橋村立図書館の存在は、1人あたり金食い虫で社会的に悪なのか。私はそうではないと考える。知恵や工夫、新しい創造はまちづくりの源泉である。舟橋村が大きな自治体の一地区となれば、一地区としての新しい創造は全体からみれば悪のような存在になってしまわないか。新しいまちづくりの力が合併で萎えてしまわないだろうか。小さな自治体には総務費など非効率な面も見受けられるが、新しいまちづくりの牽引役を演じて来た自治体が多いことも事実である。むしろ私には、規模が小さなことによる非効率さは、創造的で税金を必要なところに有効に使うためのまちづくりにとって必要不可欠な非効率さではないかと思えるくらいである。 また、舟橋村には舟橋村保育所(所長・河正雄氏)がある。舟橋村保育所は、今年度から第三者評価を取り入れるなど、公立ではユニークな存在だ。生活発表会など、近隣の公立保育士が脱帽する事業や施設運営をしており、保護者の満足度も高い。果たしてこれが富山市ならできるだろうか。富山市には43か所の公立保育所があるが、所長や職員には異動がある。舟橋村のようなユニーク所長は存在しにくいのではないだろうか。職員についても、舟橋村の給与は低いが、苦労をしてもやりがいを持てる環境だからこそ素晴らしい生活発表会や施設運営ができるのではないだろうか。大きな自治体にありがちな悪貨が良貨を駆逐するような環境では行政サービスの向上は望めない。 地域とかコミュニティは人間にとって根源的なものであり、その根源性を奪うと人間は努力しなくなると思う。地域根源性に根ざした努力や知恵、工夫がまちづくりの原動力となっているし、日本の原動力はそれらの集合体としての地域根源性から発せられるのではないかとも考える。 大きな自治体の方が多様なサービスを実施できるとする意見がある。確かに、病後時保育など大きな自治体でしか実施できない保育サービスもあろう。しかし、多元性を否定した多様性はいわば「嘘の多様性」である。同一の組織から発せられる多様性は本当の意味での多様性ではない。近年NPOは、社会的な問題解決を担うセクターとして注目されているが、結果として多様な公共社会となるための多元性を担う組織だからこそ注目されているのではないだろうか。


●新しい日本を創造するNPOたりうる小さな自治体

小さな自治体も行政セクターであり、これまでNPOとしての概念ではとらえられてこなかった。小さな自治体が公共サービスの多元性を担うという側面を重視し、NPO的な役割としての存在意義について考えてみたい。 自己決定・自己負担・自己責任や住民参加を機能させるためには、自分たちの税金がどのように使われているかを把握できないといけない。個別的な把握ではなく全体を見渡せて、優先順位を住民それぞれが判断できる規模が最適である。人口が30万や10万でそのようなことが実現できるとは思えない。北海道のニセコ町で実践されている情報共有と住民参加を理念とする「ニセコ町まちづくり基本条例」に基づく予算書は、行政が行う優先順位と住民個々が持つそれぞれの優先順位とを照らしあわせることで、民主的な行政運営、民主的な税金の使い方を目指す試みであると理解している。 経済成長期にはピラミッド型組織のマネジメントは、日本の発展にとって多くの役割を果たしたが、今日、行政であれ企業であれ、ピラミッド型組織が疲弊、そして社会的機能不全になりつつあるという認識が深まりつつある。市町村合併は、小さな自治体をなくし、大きなピラミッド型組織にしようというのだからそもそも方向が間違っているのではないか。たとえ、大きくなった市に権限や税源が委譲されたとしても、その市がピラミッド型の大きな組織である以上、せっかくの権限や税源が有効に活用されないことも危惧される。これからの日本をささえるのは、多元ネットワーク型組織である。それぞれの組織(意思決定、自己完結)はより小さく、そして、時には連携する。NPOがなぜ注目されているかといえば、端的にいえば、機能不全のピラミッド型組織ではないからだ。自治体でいえば、大きな市を解体し、小さなコミュニティ単位で意思決定する議会を持ち、小さな自治体で解決できない問題については、ネットワーク的事務組合を構築して広域公共的な問題解決を目指せばよい。いわゆる「補完性の原則」に立ち返るべきではないか。極論をいえば、日本を再生するには、大きくすることではなく、より小さくすることである。より小さくすることで「考える住民」「考える職員」が育つのであり、大きくしては、魂のない空虚な日本、堕落する日本へと邁進するだけではないか。小さな自治体は、その地域に密着した、地域による地域のための「公共」を実現するために必要不可欠な多元性を担うNPOたりうると考える。小さな自治体も大きな自治体も行政としての機能不全はあるだろうが、私は小さな自治体により大きな希望を見いだすことができる。それは、よくも悪くも地域に密着しているということである。地域という根源性が知恵と工夫のプラットフォームになる。これからの日本をささえるのはNPO的な組織である。自治体職員、そして住民がイキイキとやる気を持って自分の問題として地域課題解決に取り組むのが重要なのであって、そのプラットフォームとして機能する可能性があるのがNPO的組織としての素地のある小さな自治体ではないかと考える。


●生活圏複数自治体の必要性

自治体においても、民間市場同様、サービスの本質的向上のためには、競争があるという環境が大事である。選択されるということが本当の競争を生むのであり、合併により生活圏に一つの自治体になってしまえば、自治の主権者である住民が選択するというプロセスがなくなり、住民起点の行政サービスの改善がなされにくくなる。選択のない行政サービスは与えられたサービスとなり、たとえ大きな自治体となり、保育所など多様化したカフェテリアメニューは整えられたとしても、メニュー外の選択という環境がなければ、メニューがあまり機能していないもしくは非効率であっても、住民側の視点にたって改善されないということがおこりうる。「Voting on foot(足による投票)」ということがいわれ、その重要性は認知されているが、現実的には、住所を頻繁に変更することは困難である。むしろ、住民自身のフリーライダーをなくす意味でも一つの自治体との係わりと参画により、自分の住む自治体を育てていく姿勢もより重要であろう。だからといって、自分の住む自治体によって与えられたサービスを選択せざるを得ない状況では、行政本意の措置的なサービスに終わり、改善されるには住民側に多くの労力が必要であるとも考えられる。行政サービスについては、コンビニを選択するように自由に選べないという意味では、独自の競争モデルが必要である。私は行政サービス向上の競争モデルは「擬似Voting on foot」という概念で表されるのではないかと考える。1つは保育所などを広域選択できるということによる選択環境である。もう一つは、実際に選択できなくても、主権者である住民が複数の自治体を“見ている”という選択環境である。生活圏の中に複数の自治体があり、主権者である住民から選択されるという緊張感が自治体には必要である。合併で生活圏に一つの自治体になれば、住民は与えられる立場に置かれる。選択できないのだから根本的に住民と行政は対等ではない。選択されるという緊張感があるからこそ、住民と行政が対等にコミュニケーションして、新しい地域価値を生み出していけるのではないだろうか。


●小さな自治体は甘えているのか

知恵と工夫が地域まちづくりそして日本の発展の原点であるということは誰もが認めるところであろう。では、小さな自治体の知恵と工夫は、小さな自治体への潤沢な地方交付税があるからこそ実現できたことではないか、という疑問が湧いてくる。地方交付税制度については、各自治体の努力インセンティブに乏しいなど課題も多いが、小さな自治体に有利とされる段階補正も含め、公平性を追求してきた蓄積の結果が今日の交付税制度である。制度面の有利不利や潤沢かどうかということは今後議論改正されていくとして、本質的に有意義な議論は、過去の地方交付税額を公平かつ正当であるという前提のもと、小さな自治体が無駄使いしやすいのか、大きな自治体が無駄使いしやすいのか、という自治体の財政規律を把握することである。財政規律を把握するのに有効なデータとしては、実質財政負担比率というデータが有効であると考える。実質財政負担比率とは、実質負債(※5)を財政標準規模で割り返した数値である。一般家庭でいえば、年収に対しどれくらいの借金があるかという数値であり、身の丈にあった財政運営をしているかどうかの指標になる。しかも、実質負債という数値は、単年度の財政操作ではいかんともしがたい数値であり、フローではなく過去の蓄積としてのストック指標として、各自治体の財政規律努力度を見る指標として非常に有効であると考える。図3は富山県内35市町村のデータである。横軸は高齢化率(平成12年度国勢調査値)であり、縦軸は実質財政負担比率(平成12年度末値)である。実質財政負担比率を見ると、富山市が1.781、高岡市が1.969などとなっており、人口が多いからといって実質負債が少ないわけではない。つまり財政規律は大きな自治体程良いということではない。むしろ富山県内では人口1300人弱の井口村が0.204と最低の数値となっているのをはじめ、大門町や城端町は人口1万人前後、下村や平村、上平村は1000人〜2000人程度の自治体であり、むしろ人口の少ない町村で財政規律が保たれている傾向も見受けられる。全国的な実質財政負担比率と人口の関係は図4のとおりである(平成10年度末)。図4からもわかるように、大きな自治体の財政規律が高いとはいえない。 更に注目したいのは、高齢化率との関係(再び図3)である。少子高齢化のために合併が必要と言われているが、高齢化率が36.1%と富山県内で最も高い平村の実質財政負担比率が0.603と低い。高齢化率が27.4%と県全体の10年先行く高齢化率を示す城端町でも負債は少ない。富山市や高岡市は、高齢化率が低いにも係わらず負債は少なくない。図3から言えることは、高齢化率の進行を理由に合併を進めても、高齢化社会という日本が直面する課題に合併は自動的には解決策となりえないことを示している。高齢化率が高いから無駄使いが増えるのではない。高齢化率と無駄使いは独立した事象である。高齢化という日本が置かれたどうしようもないことに呪縛されていては本質を見失う。自治体規模を大きくすればあたかも高齢化に対応できて安心というような錯覚ではなく、いかに税金を必要なところに有効に使えるかどうかが肝要であり、自治体規模とは無関係である。


図3・高齢化率と実質財政負担比率
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図4・人口規模と実質財政負担比率(全国)
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●市町村合併天気予報

私は、自分のホームページで「市町村合併天気予報」なる評価表を公表している(※6)。各自治体をデータで評価するのは私の本意ではないが、西尾私案に見られるような人口という単一軸による評価ではなく、多様な観点から自治体を評価することが必要ではないかと考えた。人口という努力しがいのない指標で自治体を評価するのではなく、自治体の経営度を評価することこそが日本の行政サービスの向上につながるという思いがある。評価の観点は、自治体の努力度である。努力度としては、財政規律を示す実質負債、組織規律を示す職員数などの指標を用いている。自治体の努力度がそんなデータに矮小化してよいものかとお叱りを受けそうだが、多様性ある議論のためにはないよりはましという気持ちで公開している。


●まとめ

市町村合併の議論がかみ合わないのは、現在の問題点を直視していないところから発していると思われる。または直視しているがあえて国の方で避けているとも思われる。各自治体は、縦割りや補助金という制度悪ともいえる環境の中でそれぞれが努力して自治体経営をしてきている。その評価を、人口規模という単純な物差しによってなされるなら、悲劇でしかない。人口規模ではなく、各自治体の努力度、財政規律、組織規律、住民満足度などを総合した自治体経営度を評価していくべきである。国が人口規模でのみ評価するということは、個人の価値や人格の尊厳性を重んじ努力するものが報われるという自由主義の日本の根幹に触れる部分ではないかと考える。地方交付税改革や補助金改革などの地方税財政制度改革はまったなしであると考えるが、個々の自治体の努力と結果を評価せず、単に人口規模による切り捨てが行われようとしていることには大きな疑念を抱かざるを得ない。 平成14年10月末に地方分権改革推進会議の最終報告がなされたが、財源委譲を明記できないばかりか、補助金の削減額も示せなかった。合併しても税財源の委譲がないとすれば、地方分権という名の夢物語を見せられるだけの合併市町村はたまったものではない。小規模な市町村には任せられないとする「受け皿論」は、合併推進のための国の逃げ口上にすぎなかったと述懐することになるだろう。制度改革や税財源委譲、権限委譲がなく、合併特例債による大盤振る舞いの合併推進は、問題の不顕在化と先送りであり、地方分権や改革とはほど遠い。 改革のために今なすべきことは、無駄使いをなくすことである。何が無駄使いかは異論のあるところであろうが、人口規模が大きいことで自動的に無駄使いが少ないというような安易な結論には達しない。税金の使い道の優先順位も含め無駄使いをなくすためには、住民と行政とがコミュニケーションを深め、自分のこととして係わり、知恵を出しあい努力していくしか方法はない。 合併の改革性を否定するものではないが、合併により改革が遅れるもしくは改革できない体質になってしまうようでは住民は不幸である。自治体改革とは税金の払いがい(Vfm)を高めることである。税金の払いがいを高めることと市町村合併とは独立事象であると考える。一部事務組合の問題点は指摘されているところだが、私はその問題点は軽微であり、「意思決定は小さな単位で、事務運営は大きな単位で(※7)」というスタンスこそ、最もパフォーマンスの高い税金の使い方ができると考えている。市町村合併により意思決定の小さな単位を失うことは、税金の払いがいを高めるということからも多いに疑問を持っている。市町村合併により多少の効率化要因はあっても、結果として税金の払いがいが高まらないなら、それは改革ではない。市町村合併が結果として改革とならないケースが多発するだろう。 市町村合併は離婚できない結婚である。現在の問題点は何か、それは人口規模に起因したものなのか、合併したら今の問題は解決できるのか、住民は冷静にそしてしっかり自分たちの自治体を評価し判断すべきである。


※1 富山では自治体の合併事例ではないが砺波広域圏消防本部(平成10年4月1日広域業務開始)の例あり
※2 総務省「市町村合併のメリット」、http://www.soumu.go.jp/gapei/d2.html (2003.01)
※3 自治・分権ジャーナリストの会編「この国のかたちが変わる」p200、2002、日本評論社
※4 吉村弘「最適都市規模と市町村合併」、1999、東洋経済新報社
※5 実質負債とは、地方債現在高+債務負担行為−積立金現在高である。
※6 http://www.hayazo.com/gappei/ (2003.01)
※7 事務運営とは、水道や消防、国民健康保険などOutputが自ずと決まっており、住民とのコミュニケーションや知恵があまり必要とされない行政サービス分野を想定。

【プロフィール】
谷口新一(たにぐちしんいち)
1965年富山県生まれ。1987年東京大学経済学部卒業。 NPP(Non-profit person)として、住みたい富山研究所を個人で運営。 公共施設のC/B分析など、市民の視点から自治体経営評価に取り組む。
http://www.exe.ne.jp/~npp/

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